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マイセン人形など一般的には発送の難しい美術品も安心です。
作品説明新古典主義期を代表するビッグネーム、ミッシェル・ヴェクトール・アシエとヨハン・カール・ シェーンハイトによる合作原型の珍しい古マイセン人形古マイセン人形、いわゆるネオ・クラシシズム様式の作品です。
アシエとシェーンハイトが合作で制作したマイセン人形原型は数作確認されていますが、その中でもとても珍しいタイプで市場では殆ど流通いたしません。
特に入荷個体はレースタイプの台座で手の込んだ造形をしています。
珍しい古マイセン人形にご興味がある方には打って付けだと思います。
詳細は下記をご覧ください。
ミッシェル・ヴェクトール・アシエ Michel Vitor Acier(1736-1799)造形家、マイセン磁器マイスターモデラー1736年1月20日にヴェルサイユ(フランス)で生まれ1799年にドレスデンで亡くなる。
1764年8月1日から1780年12月までマイセンに雇用された。
七年戦争(1756年〜1763年)の後は、市民層の経済的発展と自由主義の前章時期でした。
そこで新しい市民的価値をマイセン社にも取り入れようとパリから引き抜かれた人物。
1764年マイセンにに入社して、ケンドラーと並んで造形家として活躍する。
ケンドラー没(1775年)後、モデルマイスターとして後継者になる。
新しい時代の好みのもの(新古典主義的なルイ16世様式の作風)を作り上げ、1780年に退社するまでに200体の人形や群像を作り上げた。
ヨハン・カール・ シェーンハイト Johann Carl Schönheit(1730-1805)造形家、マイセン磁器モデラー1730年2月、シェーンハイトはマイセン磁器の機械工の息子としてマイセンに生まれました。
父親の影響で造形技術を幼年から習得し、11歳の年齢でマイセン磁器に雇用される。
1745年から正式に造形師としてケンドラーのもとで制作活動の一端を担うこととなる。
1764年からは白磁造形のトップ技師となり、以降ケンドラーやアシエの時代において非常に重要な作品を世に排出いたしました。
1772年、後にシェーンハイトの代表作となる「五感の寓意」制作1782年、Mythology 神話オリンポス12神をJüchtzerと共同制作1787年、大作「決定的な選択」「二人の求婚者」制作などなどです。
上記はほんの一例でマイセンを代表する名作を数多く制作しています。
ケンドラー死後以降アシエの時代も含み、影のトップモデラーとしてマイセンに君臨しました。
俗に言う「無冠の帝王」、トップモデラーの称号がなかったため謎多き造形師となり、それが要因して逆に近代では作品の流通量が少ない事もあり人気が高くなったようです。
晩年は病との戦いで1794年にマイセン磁器を引退。
引退以降もマイセンに居住し、同氏の最高技術を後世のモデラー達に伝えたと言われています。
1805年5月27日、生涯住み続けたマイセンにて死去。
作品詳細≪英名≫Two lovers,one kneeling,with a man.(Meissen Collector's Catalogueより)≪モデラー/推定≫ミッシェル・ヴェクトール・アシエ(Michel Vitor Acier 1736-1799)ヨハン・カール・ シェーンハイト(Johann Carl Schonheit 1730-1805)≪原型制作年/推定≫1768年≪モデルナンバー≫B100≪グループ≫Neo Classicism≪等級≫一級品≪制作年代/推定≫1900年頃≪サイズ≫高さ230mm※サイズはスケール計測なので参考です。
≪コンディション≫各所専門的な修復あり、現況大きな割れ欠け等はなく展示装飾にあたり特筆すべき瑕疵は見当たりません。